夢の島公園

夢の島は、素朴かつ悪夢のようなその性質から名付けられました。1930年代、東京湾に砂で埋め立てた島々が現れました。東京湾に船の航路を確保するのがむずかしかった時代のことです。最終的に, この埋め立て地は、近代的なインフラを支えるのに十分な強度を持つようになり、政府は空港の建設も計画していました。

1939年に着工したものの、第二次世界大戦が勃発して資材を確保できなくなり、工事は行き詰まってしまいました。戦後、連合軍は夢の島ではなく、すでに近くにあった東京飛行場、つまり羽田空港を東京都民のために使うように命じました。

1947年から1950年の間、この島は公共の海水浴場として使われ、この時期に夢の島という名前がつけられました。しかしながら、資金が不足する中で、島がゴミ捨て場になり、事態は徐々に悪化します。60年代を通して、夢の島に関して様々なことが言われましたが、それは悪いことばかりでした。夢の島は ガラクタ、生ゴミ、ハエの大群と同義語になったのです。

しかし、1970年代、 夢の島をきれいにして、人々のために近代的な公園を整備することが計画されました。現在では、ランニングのトラックや運動する小学生、美しい風景が見られ、かつての荒地の面影はありません。

公園の西側をゆっくり下っていくと、印象的な鉄骨の構造物が目に入ります。これは第五福竜丸(英語名Lucky Dragon 5)で、アメリカがマーシャル諸島のビキニ環礁水爆実験、キャッスル作戦ブラボー実験を行ったとき、放射性粒子に被爆しました。

危険水域外にいたにもかかわらず、当時勤務していた23人の乗組員全員が、急性放射線中毒症を発症しました。当時無線長だった久保山愛吉さんは、その6ヶ月後に40歳で亡くなっています。

夢の島公園には、BumB東京スポーツ文化館や夢の島熱帯植物館などの美しい建物がたくさんあります。BumB東京スポーツ文化館は、近くの新江東清掃工場のエネルギーを利用した屋内プールを備えた公共スポーツ施設です。

BumB東京スポーツ文化館の裏手には, ガラス張りの建物が印象的な夢の島熱帯植物館があります。温室は3つのセクションに分かれており、百合やマングローブに覆われた滝の池があります。

オリンピック大会

夢の島公園の一部は、東京2020オリンピックのアーチェリー会場へと変貌しました。大きな競技大会を開催することで、この施設はアーチェリーの振興に重要な役割を果たしていくことでしょう。施設には5千6百席あり、その他のレクリエーション活動にも使われます。

しかしながら、新型コロナウイルス感染症の流行で、全ての活動は来年に延期となってしまいました。日本側大会事務局は、アーチェリー場をオリンピック後もそのままにしておくことに決めています。ただし、アリーナと売店はオリンピック後に撤去され、その跡地はランニングのトラックになる予定です。

近代都市東京で、アーチェリー会場は新たにあつらえられ、現在と未来に向けて、言い換えれば、何世代にも渡って使えるように設計されているのです。